父の誕生日
今月の5日、父が86歳の誕生日を迎えた。
毎年恒例のちらし寿司を作って祝った。一昔前ならすべて手作りだったが最近では混ぜて何かと飾れば立派な寿司が出来上がるので便利な世の中だ。食べられなかった人は写真を見て食べた気分を味わってもらおう!
(お祝いメニュー)
(海老を奮発!)
さすがに近頃は歩けば息が切れるし、頭はボーっとするし、声は出ないしと年相応にいろいろあるけど、人生の後半に大病を二度も患ったことを考えると元気だなぁと思う。
70代半ば、それまでとても元気で病気などしたことがなかったのに風邪をこじらせて肺炎になった。症状が重くなったので明け方救急車で病院に搬送されて入院。肺炎ならぬ肺癌が見つかりさらに大きな大学病院に。年齢的なこともあったが腫瘍の発生位置が複雑なところで手術は到底無理だと言われた。親に内緒で余命を聞いたらせいぜいもって一年と言われた。ところがなんとなんと、化学療法が余程効いたのか3クールの予定が2クールで腫瘍は消えた。それから十数年が経ち定期健診も数年前に終わった。「本当に癌だったのかしらね~」と医師が言ったとか言わないとか。あのときの私の涙はいずこに!
(お刺身で父が一番好きなマグロにやはり好物の山芋で山掛け)
お次に来たのが乳癌。父なのでもちろん男性だ。罹病率はすごく低いが男性にも乳癌はあるのだ。こちらは手術で取り除いた。今乳房は片方しかない。誰も見ないし男性だから気にもならない、と私は思っているのだが。もう5年以上も前のこと。今日は最後の検査に出かけた。幸い毎回の検査も検診も異常は見つかっていない。
そして昨年両眼の白内障の手術をした。これも結果良好でまた運転が出来るようになったと喜んでいた。そう。この年でまだ車を運転している。でも来年の免許更新はしないと思う。いろんな意味でみなそう願っている。
(これまた大好物の豚耳のマリネ-夫の得意料理、コラーゲンたっぷりだが私はダメ)
こう見えても若い頃は結構な遊び人?で、私が生まれて程なく数年間はバイクの爆音を轟かせながらビリアードに夜な夜な通い、自前のキューまで持っていたらしい。それに飽きると次は社交ダンス教室。お陰様で結婚式で注目の花嫁と父親のワルツは日本人にしては珍しく二人で優雅な舞を披露することが出来たのだが。
自営業だったことを幸いに夜遅く帰宅しては朝はいつまでも寝ていたのを覚えている。実際私には朝早く仕事に出かける近所の小父さんたちと違いいつまでも起きない父のことが印象深かったらしく、一年生のときの作文で書いてみんなの前で読み上げたことがある。その後暫くの間近所の同級生たちは父の顔を見るたびに「私のお父さんは朝寝坊で…」とその作文の冒頭を皆で大声で暗唱していたらしい。
(色鮮やかな旬の菜の花のおひたし芥子醤油和え-芥子醤油は息子が調合)
次にハマッタのが麻雀。これに関しては始めるきっかけが私だっただけに母にちょっと申し訳ない。お母さんごめんね。
もともと体が弱かった私だがある晩腹痛を訴えた後冷や汗をたらしぐったりとなったらしい。唇はチアノーゼ。そんな私を抱いて走り夜中にドアを叩いたのが近所の開業医の病院。
そこの次女と姉は同い年で同じ名前、三女と私は同い年、そんな共通点もありその医師とすっかり意気投合。それから彼に誘われ麻雀、夜釣り、狩猟、温泉めぐりなどなど父の遊びに益々磨きがかかった。
挙句の果てに遠く南米は低開発国の(当時はそう呼んだ)ボリビアにまで家族諸とも付き合うはめに。その結末についてはまた別の機会に書くことにしよう。
(寿司といえばガリでしょう。口直しにどうぞ。ついでに野蒜の梅酢和え-梅酢は自家製)
私は小さい頃からお父さんっこでとにかく父が大好きだった。もちろん今でも好きだけど…
父は私が生まれたとき期待していた男児ではなかったので暫くは見向きもしなかったらしい。それでも元気いっぱいの私に男児の片鱗?を見出したらしく、念願だった刀、ピストル、駒、自動車などの男の子の玩具をせっせと買っては与え一緒に遊んでてくれた。私がお転婆に育ったのはこんな環境のせいだと未だに思っている。
今父の一番のお気に入りはやっぱりお転婆ラナちゃんだ。夕方の散歩、餌の管理、予防接種、などなど、とにかくラナちゃんのことになると一生懸命だ。「ラナ、ラナっていつもラナちゃんの心配ばかりして。」とは母の弁。
そんな父も来年は数え年で88、米寿のお祝いだ。ブエノス・アイレスに在住の姉も遠路はるばる地球を半周して祝いに駆けつけると約束してくれた。久しぶりに親子4人が揃うわけだ。まだ一年先のことなのだが来年の春が待ち遠しい。
毎年恒例のちらし寿司を作って祝った。一昔前ならすべて手作りだったが最近では混ぜて何かと飾れば立派な寿司が出来上がるので便利な世の中だ。食べられなかった人は写真を見て食べた気分を味わってもらおう!
(お祝いメニュー)
(海老を奮発!)
さすがに近頃は歩けば息が切れるし、頭はボーっとするし、声は出ないしと年相応にいろいろあるけど、人生の後半に大病を二度も患ったことを考えると元気だなぁと思う。
70代半ば、それまでとても元気で病気などしたことがなかったのに風邪をこじらせて肺炎になった。症状が重くなったので明け方救急車で病院に搬送されて入院。肺炎ならぬ肺癌が見つかりさらに大きな大学病院に。年齢的なこともあったが腫瘍の発生位置が複雑なところで手術は到底無理だと言われた。親に内緒で余命を聞いたらせいぜいもって一年と言われた。ところがなんとなんと、化学療法が余程効いたのか3クールの予定が2クールで腫瘍は消えた。それから十数年が経ち定期健診も数年前に終わった。「本当に癌だったのかしらね~」と医師が言ったとか言わないとか。あのときの私の涙はいずこに!
(お刺身で父が一番好きなマグロにやはり好物の山芋で山掛け)
お次に来たのが乳癌。父なのでもちろん男性だ。罹病率はすごく低いが男性にも乳癌はあるのだ。こちらは手術で取り除いた。今乳房は片方しかない。誰も見ないし男性だから気にもならない、と私は思っているのだが。もう5年以上も前のこと。今日は最後の検査に出かけた。幸い毎回の検査も検診も異常は見つかっていない。
そして昨年両眼の白内障の手術をした。これも結果良好でまた運転が出来るようになったと喜んでいた。そう。この年でまだ車を運転している。でも来年の免許更新はしないと思う。いろんな意味でみなそう願っている。
(これまた大好物の豚耳のマリネ-夫の得意料理、コラーゲンたっぷりだが私はダメ)
こう見えても若い頃は結構な遊び人?で、私が生まれて程なく数年間はバイクの爆音を轟かせながらビリアードに夜な夜な通い、自前のキューまで持っていたらしい。それに飽きると次は社交ダンス教室。お陰様で結婚式で注目の花嫁と父親のワルツは日本人にしては珍しく二人で優雅な舞を披露することが出来たのだが。
自営業だったことを幸いに夜遅く帰宅しては朝はいつまでも寝ていたのを覚えている。実際私には朝早く仕事に出かける近所の小父さんたちと違いいつまでも起きない父のことが印象深かったらしく、一年生のときの作文で書いてみんなの前で読み上げたことがある。その後暫くの間近所の同級生たちは父の顔を見るたびに「私のお父さんは朝寝坊で…」とその作文の冒頭を皆で大声で暗唱していたらしい。
(色鮮やかな旬の菜の花のおひたし芥子醤油和え-芥子醤油は息子が調合)
次にハマッタのが麻雀。これに関しては始めるきっかけが私だっただけに母にちょっと申し訳ない。お母さんごめんね。
もともと体が弱かった私だがある晩腹痛を訴えた後冷や汗をたらしぐったりとなったらしい。唇はチアノーゼ。そんな私を抱いて走り夜中にドアを叩いたのが近所の開業医の病院。
そこの次女と姉は同い年で同じ名前、三女と私は同い年、そんな共通点もありその医師とすっかり意気投合。それから彼に誘われ麻雀、夜釣り、狩猟、温泉めぐりなどなど父の遊びに益々磨きがかかった。
挙句の果てに遠く南米は低開発国の(当時はそう呼んだ)ボリビアにまで家族諸とも付き合うはめに。その結末についてはまた別の機会に書くことにしよう。
(寿司といえばガリでしょう。口直しにどうぞ。ついでに野蒜の梅酢和え-梅酢は自家製)
私は小さい頃からお父さんっこでとにかく父が大好きだった。もちろん今でも好きだけど…
父は私が生まれたとき期待していた男児ではなかったので暫くは見向きもしなかったらしい。それでも元気いっぱいの私に男児の片鱗?を見出したらしく、念願だった刀、ピストル、駒、自動車などの男の子の玩具をせっせと買っては与え一緒に遊んでてくれた。私がお転婆に育ったのはこんな環境のせいだと未だに思っている。
今父の一番のお気に入りはやっぱりお転婆ラナちゃんだ。夕方の散歩、餌の管理、予防接種、などなど、とにかくラナちゃんのことになると一生懸命だ。「ラナ、ラナっていつもラナちゃんの心配ばかりして。」とは母の弁。
そんな父も来年は数え年で88、米寿のお祝いだ。ブエノス・アイレスに在住の姉も遠路はるばる地球を半周して祝いに駆けつけると約束してくれた。久しぶりに親子4人が揃うわけだ。まだ一年先のことなのだが来年の春が待ち遠しい。
- 関連記事
-
- あれから一年 (2011/04/21)
- 父の誕生日 (2011/04/12)
- La traviesa - 我が家のお転婆ラナちゃん (2011/04/04)
スポンサーサイト